摂理ニュース
試練を経験するキリスト教福音宣教会、復活の意味を回復させ生まれ変わった人生に(「民政」の記事より)
韓国の民政に取り上げられた記事を紹介する。この記事は2013年3月1日号の民政に以下のような見出しで掲載されたものである。
『宗教の自由を保障するためにはまず
成熟した社会が作られねばならない』
-試練を経験するキリスト教福音宣教会、復活の意味を回復させ生まれ変わった人生に-
以下が民政の記事を引用し、翻訳したものである。
チュンナム クムサン郡チンサンミョンソンマンリに自然聖殿がある。都心と遠く離れた山の中だ。文字通り、自然の中にできた聖殿だ。ここはテドゥン山を屏風とみなした静けさ漂う地に、広い運動場、池、傾斜のある芝生、そして巨大な奇岩怪石が剣のように立てられており、見る者に神秘感を抱かせる美しい礼拝所だ。鳥の音に調和し春爛漫の花が咲き乱れ、新緑が深まるとそれこそエデンの園のような場所だ。このような場所で礼拝を捧げるということを考えたら、それ自体で恵みと平和があふれる聖殿だ。
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この美しい聖殿をつくった人物は意外である。現在10年の宣告を受けて服役中のチョンミョンソク総裁だ。世の中の誤解と偏見によって、総裁がひどい苦難を受ける中で、この内幕を正しく知らない人たちは、このことによって宣教会が瓦解して消滅すると思った。おまけにネタを見逃すはずのない、いくつかの放送局が、歪められた事実を撒き散らしたから、状況はもっと困難になった。しかし、真実は変質しなかったし、ここを守ってきた人々の信仰もまた変わることがない。彼らは、なぜ総裁が10年の刑罰を受けるようになったのか、その理由をよく知っているからだ。
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チョンミョンソク総裁が教えることは、生活の中でイエス様の愛を行いなさいという実践的教えであり、その教理的悟りは多くの反響を起こした。信じて従う者たちには信仰の新たなビジョンとして迫ってきただろうが、そうでない人たちには受け入れがたい部分があっただろう。特に、この宣教会を良からぬ視線で見る人たちは、チョンミョンソク総裁をターゲットにして、あらゆる良からぬ世論を作った。そして、世の中の人たちの目をひきつけるような、未確認の内容を受け売りすることに忙しかったメディアは、終始、まるで小さな火種に油を注ぐ役割を果たした。
世論は、当時、話題になった性的な問題にフォーカスを合わせた。そして、放送はその内部事情を探ろうとしなかった。幼稚なハレンチ犯として駆り立て、石を投げるのにいとまがなかった。放送で興味津々に扱ったため、多くの人々に知れ渡り、宣教会に対する認識は当然悪くなるほかなかった。このような状況が、法廷まで飛び火し、単純なゴシップネタが、宣教会と総裁、信じて従う者たちに大きな衝撃を与える状況にまでなった。裁判所の判決は、まだ納得できない部分がある。裁判所は、十分な事実証拠による判決よりは、一部の証言と社会的世論に大きく偏った。無罪推定の原則はすでに世論に葬られ考慮される余地がなかった。結局、裁判所は彼に実刑を言い渡し、十字架を負わせた。しかし、チョンミョンソク総裁は、その無念な受難を身に負いつつも、世の中の法に立ち向かうことよりも、イエス様が実践なさった愛と赦しに従うため、十字架を背負おうとした。彼に十字架を負わせた(事件の)内幕は、人間の欲がどれほど醜悪なのかを実感させた。
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世の中の法と打算は知らないが、神様は知っている
月明洞にある美しい自然聖殿は、彼が生まれた場所であり、育った場所だ。彼はここで世の中に接するよりは、まず神様に接した。幼い時から祈りと聖書を読むことに没頭し、イエス様が教えてくれた真理を一つ一つ悟った。彼は学んだ真理を生活の中で実践するために誰よりももがいた。着る物もなく飢えている乞食たちを家に連れて来て、洗って、乏しい中でももてなしをおろそかにしなかった。病気の人たちのために祈ってあげ、悟った真理を伝えるために一日中労を惜しまず、テジョン、チョンジュなど近隣地域を回った。そして、一度行くのも困難なベトナム戦争に、二度も参戦し、国民の一人として国防の義務を果たした。聖書だけを見つめていた彼が、銃弾が降り注ぐ、命が危機にさらされる戦場で感じたことは、人間は死を前にあまりにも弱い存在であり、人は誰しも人間の生死を左右することはできないということだった。この人には、ただ絶対主、神様だけが関与し、人間がその方を信じて従う時に働かれ、それによって命を保つことができるという信仰がある。参戦の経験は、彼が神様に学んだ真理をより一層実体化させ、生活の中の実践信仰をより命のように考えるきっかけとなった。総裁は、本格的にイエス様の福音を伝えるため、人生の全てを捧げた。彼が伝える真理と聖書の解釈は、人とは異なる。形式的で旧態依然の既存の教理とは違った点がある。たとえば、聖書には“神とあなたの隣り人を自分を愛するように心と思いと命を尽くして愛せよ”という言葉がある。たとえ信仰人でないとしても、このような教えをタブー視する者がどれほどいるだろうか?しかし、この時代は実体真理が教理レベルに発展したドグマに陥り、このような教えを、理論としてはわかるものの、実践することはできない障害を持っている。『信仰は理論ではなく生活だ』という総裁の強い教えは、乾いた地に慈雨のようだった。記者が会った宣教会の聖徒たちは、みんなこのような教えにしっかりと訓練された人たちだった。神様の前に絶対愛と信仰、隣人と兄弟に分け与えることと配慮する生活を一番価値あることとして考える者たちだ。チョンミョンソク総裁は、ただ神様だけを掴み、学んだ真理とこれを生活の中で適用し、体得した幸福をどのように世の中に伝えるかということを悩んだ。他の方法はなかった。ただ世の中に出て行ってその悟りを叫び伝えるほかなかった。伝える御言葉を、耳のある者は偏見を捨てて聞くようになった。そして、その御言葉に従った。彼に従う人たちはひとりふたりずつ集まり、いつの間にか雲の群れになった。そして、御言葉は韓国を越え、全世界に広がって行った。人種と民族が異なり、肌の色が違っても、神様を探し求める人間の崇高さは同じだった。世界各国からその御言葉に従う人々が集まってきた。このようにしてキリスト教福音宣教会が立てられた。
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偏見と誤解で始まった葛藤
美しい聖殿が完成した頃、暴風雨が吹きつけた。自然災害の暴風ではない。人間の誤解と偏見による葛藤の暴風だった。チョンミョンソク総裁の教えに従う人の群れを好ましく思わない人々は、外側だけ見て無責任な言葉を放った。既存の教理と次元が異なる教えは既存宗教人たちを刺激しもした。聖書を中心にイエスキリストの愛を伝える真の教えを聞いて、多くの人々が集まってきて、教会の勢いが広がろうとすると、宣教会と総裁に対する嫉妬と根拠のない非難が多く起こった。歪められた認識が人々の間に広がり、言論メディアはいくつかの提供情報を確認もしないまま放送した。興味のネタを探している放送局にとっては持ってこいの好材料だった。チョンミョンソク総裁が主日説教で、命の伝道の話をする中で「10のうちひとつを伝道しなさい」と言ったにも関わらず、この説教内容を「女一人を伝道しなさい」という内容に操作し放送に流した。放送が流れた後、宣教会と聖徒たちは、相当な衝撃を受けた。真実を伝達すべき言論が、事実糾明のプロセスを省いたまま、商業的論理によって報道したため、宣教会はなすすべなくやられた。1999年、一部の情報提供を受けて、歪んだ報道を行ったS放送局に対する損害賠償および放送報道禁止請求訴訟は、裁判所が宣教会の側に立ち、和解勧告決定と損害賠償判決を下した。しかし、放送局が得た放送収入に比べたら、9千万ウォンの補償金は、俗に言うガム代程度だ。マスコミの悪意の誤報はキリスト教福音宣教会をJMSという世の中の名称に変え、これを世間に広く知らしめた。そして、チョンミョンソク総裁をハレンチな指導者に仕立てた。
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平穏だったこの場所に、正義にかこつけた世論の袋叩きは、まるで火山が爆発したように大きな衝撃を与え、成り行きを知らない会員たちは、火山爆発の後に降り積もった灰に覆われたように、息を潜めていた。宣教会の教団は、この事態を回復させるため、あらゆる方面に力を尽くしたが、放送で染み付いたイメージと世間の誤解を解くにはあまりにも力不足だった。放送局の謝罪放送の1行ではとうてい回復することのできない状況だった。このような状況で、そうでなくても宣教会を異端として糾弾していた既存の宗教は、宣教会を、親しく交わることのできない集団と定め、総裁の教えと宣教会のすべての活動に非難の視線を注いだ。
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数万の聖徒、チョンミョンソク総裁とともに十字架を負い?
法のものさしは非常に公平でなくてはならない。『10人の泥棒を逃しても、1人の無念な罪びとを出してはならない』という言葉がある。チョンミョンソク総裁の裁判は、法廷の証拠主義から外れた一方的な世論裁判だった。無念な人を出さないための裁判所のより深い腐心と徹底した調査、実態的真実を明らかにする努力に関して残念だ。この事件は、偏見と誤解でもたらされた葛藤の内幕をまともに見つめることができなければ、正確にその真実を受け止めることは難しい。また、チョンミョンソク総裁の生き方とその教えを知らなくては、簡単に理解することができない。特に、総裁の教えに従って完全な信仰生活をする会員たちに会う前に宣教会に対する社会的世論に先に接する人たちは、誰でも非難の隊列に加わるほかないというほど、冷酷な現実がある。記者はこのようなむごい謀(はかりごと)にあいながらも神様に対するまことの信仰を守ろうとする宣教会の多くの聖徒たちを見ると感動するくらいだ。信仰に対する純粋さとその情熱が羨ましいほどだ。彼らの情熱が、むしろ私たちの社会に活力の源となる役割をするのではないかという思いが湧き、果たして既存教会の信徒たちがあれほどの信仰をもっているのか、疑わしくなる。
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狂信徒と貶める社会的な視点が一日も早く改められなくてはならない。正義という名の下に世の中の法と世間の認識のものさしで信仰生活を測るなら、私たちは過ちに陥る可能性がある。既存の教会団体はキリスト教福音宣教会を異端として定めている。世の中のものさしではない信仰のものさしで、なぜ彼らがそこまで信じ従うのかをよく見てみる十分な理由がある。歪んだ噂より、真実を見てほしいという思いだ。愛による救い、つまり神様に向かう霊的な愛とともに、イエス様の愛を生活の中で実践する宣教会聖徒たちの真実な生き方を偏見なく見るべきだ。社会的な問題として台頭する異性的堕落を禁じ、酒、タバコもやらず、禁欲的な教理で清く道徳的な聖潔を実践する宣教会の若者たちから新たなビジョンまで感じる。
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チョンミョンソク総裁は現在、七十も近い年齢で、すでに5年以上服役をしている。総裁はたとえ寒い監房で収監生活をするとしても、そこでも彼の生き方の姿勢は一切乱れることがない。ひたすら神様にすべてのことを委ね、自身の疲れは気にもとめず、信徒たちが手紙を通して送ってくる苦しい心境や心配事を聞いている。また神様の御言葉を一日でも逃してしまわないかと気が気でなく、明け方1?2時から切実に祈り、困難の中でも信仰の基準を守っている。あわせて、多くの信徒たちも総裁とともに苦難と犠牲の十字架を負っている。記者が会った信徒たちは、世の中の思考方式では、自分たちが受ける名誉毀損はどれも反訴すべき内容だが、神様が判断して下さると信じて祈っていると言った。最近、宣教会を対象とした、いくつかの告訴告発の案件がすべて「嫌疑なし」とされた。それだけに、今はチョンミョンソク総裁に対する事件も再証明が必要だと考えられる。2000年前、イエスは自身だけが正しいと言ったパリサイ人とユダヤ人によって、激しい迫害を受けた。多くの人びとがイエスの御言葉を聞いて従ったことに嫉妬したのだ。既得権を握っていた彼らは、イエスを世論裁判に追い立てて十字架刑を執行した。2千年前も今も、自分の考えや自分の教団の立場と少しでも違えば異端と糾弾し、タブー視する行為はキリスト教の核心教理である愛と赦しの根本趣旨から大きく外れた行動であろう。
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新政府が立ち上がる。みなが希望に満ちた未来を夢見て、より良いビジョンを望む。しかしこれからは、私たちの社会が、これ以上無念な個人、集団が生まれることを看過してはならず、義なる弱者のために努力することだ。これは、いく人かの公職者や官僚たちにだけ要求されることではなく、私たちすべてに与えられた時代の成熟した要請だろう。